カテゴリ:尊敬な人( 7 )

450/ 2010ノーベル平和賞劉曉波氏

2010/12/13(月)

今年のノーベル平和賞は、中国の人権活動家 劉曉波氏が選ばれた。
劉氏のことは、今まで全然知りませんでした。 この賞のきっかけで、
いろいろを調べて、少し分かりました。
同じ中華民族の血を持つ自分は、大きな感動と誇りを覚えます。

受賞式翌日の朝日新聞のトップ面の写真と記事、このページを保存したい
ので、ノートに エントリしました。

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受賞式で、代読された劉曉波氏の文章。
「私には敵はいない 最後の陳述」 全文
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文章を読んで胸がいっぱいになりました。

劉氏は「零八憲章」の起草者ということで、中国政府に「国家政権転覆
扇動罪」と決め付けられ、懲役11年の判決が下された。現在、遼寧省
の錦州刑務所で服役中。受賞のことを知り、獄中の劉氏は 涙を流した。
「この受賞は天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」
と語ったそうです。

人生の全てを投げ捨て、理不尽な専制政治と向き合って戦うこと、
とれぐらい計りし切れない勇気がいります、と私には想像が出来ません。

多くの人々が同感でも、目前の生活や家庭を守ることが精いっぱいで、
結果を怯えて、行動が出来なく 意思を隠し、ひっそりと暮らしている
人々が、大勢大勢いると思います。

劉曉波氏は、中華民族の血を持つ全世界華人の誇りです。














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by k_ogane | 2010-12-13 02:49 | 尊敬な人

379/ 花落如雨(知床旅情)~悼 森繁久彌先生

2009/11/14(土)

11月10日、大好きな日本代表的な俳優、森繁久彌氏が逝去
しました。

森繁氏との”出会い”は 「花落如雨」(”知床旅情”の台湾訳曲)
という曲でした。その時、自分はまだ高校生でした。 夏休みに、
友達の家のパーティーで、初めてこの曲を聞きました。
あまりにも美しい旋律で、メロディーは10代の心に沁み込んだ。

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留学で、日本に来た後、作曲者は ”森繁久彌” と初めて知りました。

以来、テレビで 森繁氏のドラマをよく見るようになりました。
80年代、劇場で 森繁氏が主演するミュージカル「屋根の上の
ヴァイオリン弾き」、2回も観に行きました。 舞台での素晴らしい演出、
森繁氏の一ファンになりました。

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知床旅情の中国語訳名は「花落如雨」です。作曲、作詩とも森繁氏
そうです。

資料では、曲のエピソードは、
1960年、森繁氏が映画 「地の涯に生きるもの」の撮影で、知床
半島の羅臼に、長期滞在していた。 映画は、地元の羅臼町の人々
の全面的な応援のもとで、最終日を迎えます。地元の厚い人情に
触れた森繁が、羅臼を離れる前日に、この歌を作って、スタッフと
共に歌ったのが 「さらば羅臼よ」という歌。 後来、「知床旅情」の
元となったです。

何か とっても心が温まるエピソードでした。
いかに 森繁氏の優しい人柄に相応しい話でした。
好きな日本の先生、また一人が亡くなったことをすごく寂しく
なります。

森繁先生、素敵な歌 「花落如雨」、
素敵なミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」のステージ、
ありがとうございました。 大好きでした。















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by k_ogane | 2009-11-14 20:10 | 尊敬な人

261/ ありがとう 日本のお父様

2008/06/22(日・晴れ)

日本で、
自分のお父さんのような存在するおじ様が、今月の9日にお亡く
なりました。その日の夕方、訃報を聞いて、ショックで 涙が止まり
ませんでした。

日本に来た 20代の頃から、ずっとお世話になっており、私のこと
を実娘のようにかわいがって下さいました。
おじ様が最後の2~3年、体が病に罹って、病院の施設に入所した。
いろんな事情で、私はお見舞いも行けず、心配しながらも何も出来なく、
ほんとうに悲しくなりませんでした。

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おじ様は資産家で、優しいだった奥様は10数年前、先に他界し、
娘たちも結婚で家を離れた。 数年前から、財産の問題で身内の争いが
絶えず。 おじ様は大きな豪邸で一人暮らし、家事をホームヘルパー
に頼んで、孤独な晩年を過ごした。

一人暮らし時のおじ様、夜中にトイレへ行って、そのままトイレ内で
倒れこんで、翌日に、ホームヘルパーが来た時、やっと発見 という
出来事もありました。一番近親な人は、ときには一番無情な人で
あること、と時々感じていました。

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晩年時のおじ様の誕生日がくる度に、私はいつもおじ様を連れて、
美味しい食事をします。 そのことは 6年間も続いていました。
食事後の何日後、いつも有名デパートから 美味しい食品が届きました。
おじ様のやさしい心遣い、今 振り返えと、とても切なくなります。

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おじ様はカメラのチェーン店を経営していた。 撮影が好きで、若い時
いつも海外へ撮影に出かけていた。 通夜の時、側のテーブルに
飾っていたおじ様の作品や愛用していたカメラなど・・を見ると、
思い出が頭を過って、泣き崩れた。

ハスミおじ様、たくさんの愛情 たくさんの思い出 をありがとう。
優しさがいつまでも kotoeの心の中に生きつづきます。














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by k_ogane | 2008-06-22 15:34 | 尊敬な人

189/ 努力の勲章

2007/10/12(金・晴れ)

10月9日の朝日新聞の夕刊、「ノーベル賞 カペッキ氏・
苦難の末」というタイトルで、今年の ”ノーベル医学生理学賞”
の受賞が決まった マリオ・カペッキ 米ユタ大学教授(70)の
ことを紹介した。

・記事のすじ

マリオ・カペッキ 米ユタ大教授は、第2次世界大戦中、祖国
イタリアで孤独な路上生活を体験し、渡米後の9歳で、初めて
学校に通うという波乱の人生を歩んできた。受賞の報を受け、
ユタ大学がウェブサイトで教授のの生き様を紹介している。

カペッキ教授の母・ルーシーさん(故人)は、詩人で反ファシズム
の活動家だった。イタリア空軍のパイロットと恋に落ちたが、
結婚はせずにシングルマザーとなる道を選んだ。

大戦下、ルーシーさんは、当時4歳の息子(カペッキ教授)を残し、
政治犯として投獄された。 教授は預けられた農家を出て、4年間、
路上で寝起きしたり、盗みをはたらいたりして、孤独に生き延びた。
終戦で、解放されたルーシーさんが、1年かけて教授を捜し出した時、
教授は栄養失調で、病院に収容されていた。

その後、渡米したルーシーさんと幼い教授は、フィラデルフィア郊外で、
多くの家族が土地を共有する 「ユートピアコミューン」 で生活した。
教授は英語も分からないまま、小学3年生で初めて学校に入り、
教育を受けたという。

今回の受賞 業績を上げるまでには、思うように研究費をもらえない
不遇の時代もあった。 それでも めげずに、着想から14年かけて、
成功されたといい。 受賞決定で報道陣に 「私達のしてきたことが、
認めてもらえて、本当にうれしい」 と語ったという。

・感想

記事を読んだ後、とても感動をうけました。 文をこのブログに転載
します。人生には、運命といういろんな試練が、様々の人に訪れ、
挫けそうな時でもめげずに、揺れない意志、真っ直ぐ目標に向かって、
前向きに歩く。 人の努力は必ず報われる とつくづく思います。















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by k_ogane | 2007-10-12 05:40 | 尊敬な人

118/ 大好きな斉藤茂太先生

2006/11/26(日)

私の大好きな斉藤茂太先生が、先週の月曜日(11月20日)、
90才でお亡くなりました。NHKで訃報を聞いた途端、心が一瞬
空っぽになり。

先生の著書との出会いは、10数年前図書館で借りた一冊の
本から。 それ以来、先生のファンになり。
今では、手持ちの先生の本は5冊、どの本も読みやすい、
日本語が拙な私でも十分に理解できる内容です。

斉藤先生の本や、日野原先生(聖路加病院名誉院長)の本が
大好きで、よく読んでいます。 本の中から、明るく前向きに
生きることの素晴らしさ、社会との関わりなど、多くの事を学びました。

心が迷い、不安、挫折・・などの時、一人で先生の本を読むと、
中の言葉は、元気と勇気を運ぶ優しい風のように、す~っと、
彷徨いの心に流れ込む。 不思議に暗いトンネルから抜け出す
ことが出来、頑張れる力が湧いてきます。

ある雑誌のインタビューで、
「いつまでも元気に
人生が楽しめる秘訣は何ですか?」
と聞かれたら、
「結局は好奇心かな」 
という答えが返ってきた。
とても胸に残る言葉です。

素敵なメッセージがたくさん詰まった先生の本は、先生の形見
と同じ、先生がいなくなっても、これらの珠玉な言葉は、いつまでも
心の中に生き続けます・・ほんとうに、ありがとうございました。















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by k_ogane | 2006-11-26 14:03 | 尊敬な人

111/ 追悼・ポール・モーリア~愛と感謝をこめて

2006/11/05(日・晴れ)

新聞で 、ポール・モーリアは11月3日午前1時、フランス南部
ペルピニャンの病院で急性白血病のため逝去、81歳でした。
という記事を読んで、とてもショックでした。

彼の楽譜、書籍、カセットテープ、CD、LD、DVD、コンサート
パンフレット・・などを、棚から全部取り出して、信じられない気持ち
で見つめ。 20代、彼の音楽にすごく影響され、彼の数々珠玉な曲
と共に過した青春時代の私、悲しみが止まりません。

ポール・モーリアのコンサートへ2回聞きに行きました、紳士的な
風采、優しい容姿、彼の音楽とはとてもぴったり。 私生活では家庭的、
愛妻家で。 目を閉じて、今でも彼の素敵なサウンドが聞こえてくる
ように・・。 ほんとうにありがとうございました。

・代表曲
恋はみずいろ/ 蒼いノクターン/ エーゲ海の真珠/ 涙のトッカータ/
オリーブの首飾り/ペガサスの涙/ カリオカの碧い風/ 渚のプレリュード/
窓からローマが見える/天使のセレナード/ 薔薇色のメヌエット/
そよ風のメヌエット/ 渚の別れ/ 雲に想いを/思い出のトッカータ/
白い渚のアダージ/ 果てしなき願い・・・・など多数。

・プロフィール
ポール・モーリア(Paul Mauriat、1925年3月4日~2006年11月3日 )、
フランスの指揮者、作曲家、ピアニスト、チェンバロ奏者。
イージーリスニング界の第一人者。フランス南部マルセイユに生まれ、
1941年にマルセイユ国立音楽院を卒業。その後、アマチュアジャズバンド
を結成し、ポール・フュガンの名で活動。1959年にパリへ進出。1965年に
「ポール・モーリア・グランド・オーケストラ」を結成、1968年に
「恋はみずいろ」を世界的にヒットさせ、グラミー賞を受賞し、
一躍名を馳せた。

1969年に初来日して以来、1987年まで毎年来日し全国ツアーを行った。
1998年のジャパンツアーを最後に指揮者を引退、最後の来日となった。
(写真: 日本公演のパンフレットから。)















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by k_ogane | 2006-11-05 06:14 | 尊敬な人

54/ 日野原 重明 先生

2006/06/05(月)

日野原先生は、私がとても尊敬する先生です。
先生との出会いは、先生の著書、「いのちを見つめて」という本です。

1995年の夏、突然の倦怠感に襲われ、体が動悸、目眩い、胃の
調子までおかしくなった。大学病院へ診察してもらって、「自律神経
失調症」と診断されました。

その時、二人の子はまだ小学生だった、万の一を想像すると、
すごく不安でした。近くの図書館で、「自律神経失調症」に関する本
を探す時、先生の本を目につき、同時に借りました。その日の夜、
寝る前の本読み(=催眠)、ちょっと軽く読む
つもりですが、本の内容、あまりにも心に響く、気が付いたら
夜明けでした。

その年、日本に来て15年目、体の異変で、初めて自分との
ぶつかり、多くのことが気づき・・。振り返えて、日本での日々、
まわりへ溶け込むと適応で精いっぱい、走る走る走る毎日。
気がついた脱力感、何もかも疲れ。自分の目標?何故日本に
来たの?本を閉じて、漠然としたうちに、心は森にいる迷子のよう・・

先生の本と出会ってから11年、今、先生の著書6冊を持って
います。先生とは一度もお目にかかったことがないですが、それ
でもすごく親しみを感じます。先生の著書から得た勇気と元気、
いつも挫けそうな自分を支えます。

一番尊敬する先生、且つ会いたかったな先生です。


・日野原先生
1911年、山口県生まれ、94歳。京都帝国大学医学部卒業。
聖路加国際病院名誉院長・同理事長、聖路加看護大学理事長。
(財)ライフ・プランニング・センター理事長。東京都名誉都民、
文化功労者。















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by k_ogane | 2006-06-05 00:50 | 尊敬な人